第2章 吉備邪馬台国神話と大和建国神話 1.

連載11
第2章 吉備邪馬台国神話と大和建国神話
1.神社史も加えると謎の3世紀が立体的に見えてきた
専門家や一般人を問わず、大半の方々があいもかわらず「欠史八代説」の密林にはまりこんで右往左往されている間に、私は「邪馬台国吉備、狗奴国大和」説で、ずんずん先に進んでいきました。
文献、考古学的な発見に加えて、第3の要素として古代から存在するであろう神社(平安時代に編纂された延喜式に掲載されている古社)の歴史と祀られている神々を丁寧に追っていきました。すると大和が吉備邪馬台国を制圧した後に東西日本を統一していく過程、複雑な日本神話のからくみが成立していく過程を解読することができました。それが、なぜ私が自信をもって「欠史八代説は誤り」、「邪馬台国大和説と九州説も誤り」と言い切っているのか、の理由です。
日本神話は記紀の記述にもとずいて、大和の「天つ神」対出雲の「国つ神」の対立で理解されてきましたが、この構図は4世紀前半の第11代垂仁天皇の頃に創作されたもので、実態は吉備邪馬台国神話圏(筑紫、出雲、吉備、讃岐、阿波を含む広域圏)を土台に、その上に大和建国神話がかぶさって成立したことが分かってきました。
(三輪山をめぐる3神)
きっかけは、纒向を見下ろす聖山、三輪山をめぐるアマテラス、ヤマト‐オオクニタマ、オオモノヌシの3神でした。
父の開化天皇の後を継いだ第10代崇神天皇は、王宮を春日(奈良市)から三輪山東麓の金屋に王宮を遷し、宮中にアマテラスとヤマト‐オオクニタマの2神を祀りました。ところが2神の折り合いが悪く、騒動が続きます。たまりかねた崇神天皇は、2神を宮中から離すことを決め、アマテラスは三輪山北麓の笠縫邑(檜原神社周辺)、オオクニタマを大和(おおやまと)神社周辺に祀ります。しかし天災、疾病はいっこうに止みません。
この時、崇神天皇の大叔母(祖父孝安天皇の姉妹)ヤマト‐トトヒモモソヒメに神がかりがあり、三輪山にオオモノヌシを招請する託宣が下りました。すると次第に大和は上昇気流に乗っていきます。
(オオモノヌシの系図をたどっていくと)
邪馬台国吉備説第1部「邪馬台国 岡山・吉備説から見る 古代日本の成立」を書き上げる頃から、ヤマト‐トトヒモモソヒメが吉備邪馬台国の最後の女王トヨとするなら、オオモノヌシは吉備の神さまではないだろうか、と想定するようになりました。
そこでオオモノヌシから日本国土の生みの親であるイザナギ・イザナミまで系図を追い、また系図に含まれない他の神々も追っていきました。
神話の世界は、往々にして摩訶不思議な空想の世界に入り込んでしまう危険性があります。この点を注意しながら、神々の根源地と古社の分布を追っていきました。すると驚くことに、縄文時代からとは言い切れませんが、古代からの日本の歴史、氏族の歴史が古社に残っていました。古代遺跡と古社は連動しており、古代日本の世界がより鮮明に具体的に立体的に見えてきました。日本の神話と神社史がこれほど面白く、楽しいとは予想もしませんでした。
幸運なことは、東西日本を統一した大和政権は敵対した神や土着神を抹殺せずに残しておいてくれたことです。大和系の氏族や神々だけでなく、大和系ではない氏族である中臣氏、忌部氏、出雲族、宗像族や土着の氏族の歴史と足跡が古社に残っていました。
(21世紀は多神教、多文化の見直しの世紀)
1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見した15世紀末頃から、イギリス、フランス、ドイツなどの西ヨーロッパ文化は曙を迎え、イスラム圏に代わって世界の覇者になっていき、一神教であるキリスト教を前提とした理念が世界文化の主導権を握りました。鎖国から目をさました日本の知識人界は、欧米に反発をしながらも、根底では欧米コンプレックスを持ち続けています。
ところがその西ヨーロッパは変貌しつつあります。代表例は2006年にオープンしたパリのケイ・ブランレイ美術館です。この美術館は西欧社会が「野蛮」として踏み潰してきた原始美術をテーマにしていますが、オープンしてから予想をはるかに上回る入場者を記録しています。行きづまった現代社会を打ち破って、次の時代の文化を創造していく上で、これまで軽視されてきた原始美術から何かのヒントが得られることに西洋人もようやく気がついてきました。この視点から見ると、私たちの先祖は貴重な宝物を残してきてくれました。
どういう形になるかは分かりませんが、日本神話、ギリシャ神話、ケルト神話、ゲルマン神話、インカ神話だけでなくキリスト教やイスラム教の下に隠されてきた神々など、世界の神々との交流が今後の私の仕事の1つになっていく気持がします。
( 文責 : パリ 広畠輝治 )



