スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

新しい記事はホームページで掲載しています

読者の皆さまへ

いつもご愛読を有難うございます。

本ブログは新設のホームページに引越しました。

 新しい記事やテーマの掲載は本ブログでは打ちきり、

 ホームページ「広畠輝治のホームページ」

http://www.terujihirohata.com/



          で掲載していきます。


今後はホームページへのアクセスをお願いいたします。


スポンサーサイト

「広畠輝治のホームページ」を開設しました


お知らせ

「広畠輝治のホームページ」を開設しました。
http://www.terujihirohata.com/

アクセス方法
   グーグルかヤフーの検索欄に「www.terujihirohata.com」、あるいは「広畠輝治のホームページ」を打ち込んでください。


    但し、ご使用のインターネット・サービスによっては、アクセスが可能となるのが、数週間から約1か月後となる場合もあるようです。アクセスが不可能な場合は、しばらく期間をおかれてから、再度、試みてください。


ホームページでは
私の三つのライフワーク

「邪馬台国吉備・狗奴国大和説による上古代史」
「源氏物語フランス・ルネッサンス版」
「日本列島の里山再生に向けたヤギ畜産振興」

の三本柱をご紹介しています。

「邪馬台国吉備・狗奴国大和説による上古代史」は、

本ブログ「広畠輝治の邪馬台国吉備・狗奴国大和説」で連載した記事群を整理して、掲載しています。

1.邪馬台国吉備・狗奴国大和外史
2.小説 吉備と出雲の勃興 (弥生中期半ば~後期)
3.小説 箸墓物語 (弥生終末期~古墳時代早期)
4.小説 謎の四世紀解読

各連載とも、[1] ~ 〔2〕 ~ 〔3〕 の順に整頓するなど、大変読みやすくなっています。


 早速、「広畠輝治のホームページ」へアクセスされて下さい


http://www.terujihirohata.com/

 

応神朝初期の三者三様 最終 No.9

応神朝初期の三者三様  (「謎の四世紀解読」 第四篇)

その3.ホムタ(誉田、品田和気)王の戸惑い

〔9〕ホムタ(誉田)王(応神天皇)の後継者

1.阿知使主の帰国

 華南の東晋から戻った阿知使主(あちのおみ)一行は高句麗を経由して、使命を達成した充足感で意気揚々と任那(加羅)地方に入りました。しかし一行を迎えた各国駐在の倭国の役人や軍人たちの目は冷やかでした。金官国の任那代表部に入ると、さらにいっそうの突き刺さるような視線を浴びました。
「ホムタ(誉田、品田和気)王の命令を果したのに、どうしてこんな応対を受けるのだろうか」と不審がる阿知使主親子に対して、「よりによって高句麗の手先となって東晋の安帝に挨拶したとはどういう料簡なのか。ホムタ王はひどくお怒りだ」と上役の役人がどやしつけました。
 高句麗の長寿王の手玉にとられてしまったことを初めて悟った阿知使主は「長寿王に利用されてしまったことは不覚の至りです。汚名を晴らすために一刻でも早く都に戻り、ホムタ王に釈明しなければ」と大慌てで筑紫行きの船を捜しました。
 しかしどの船もホムタ王の怒りを受けている厄介者の乗船を拒みました。唯一、乗船を承諾したのは宗像族の海人でした。「私どもの守護神であります胸形(宗像)三女神が機織りの工女を手許に置きたいと切に願っております。ご一行の四人の工女のうち、お一人を胸形大神に献じていただけるなら、筑紫までは申すまでもなく、摂津の湊にまでご案内いたしましょう」と申し出ました。仕方なく兄媛を献じることを約束して、一行は倭国行きの船に乗船することができました。兄媛は筑紫国に在る御使君の祖となりました。
「まだか、まだか」と焦る気持ちをおさえるうちに、ようやく417年2月、摂津の武庫の湊に到着しました。しかし翌朝、ホムタ王崩御の急報を知り、「しまった、遅すぎた」と不運を嘆きました。
 途方にくれた阿知使主は、父王の密葬(もがり)の儀を終えて難波の高津宮に戻った大雀王子(大鷦鷯おおさざき。仁徳天皇)の許をつてを頼って訪れました。じっくりと釈明を聞いて理解を示した大雀は阿知使主と都加使主(つかのおみ)親子を咎めませんでした。命が救われた思いの二人は恩人として忠誠を誓い、連れ帰った弟媛、呉織、穴織の三人を大雀に献じました。この女人たちは、呉衣縫・蚊屋衣縫の祖となりました。

2.王位の譲り合い

 大雀王子が気掛かりなことは、ホムタ王の密葬が済んだ後も、父王が後継王に指名した宇道稚郎子が一向に即位の意向を示さず、即位儀式の準備も進めていないことでした。
 気になる大雀は難波から宇治の宇道稚郎子の宮に出かけてみました。大雀と宇道稚郎子は腹違いの兄弟でしたが、父王の在世中から仲がよく、信頼しあっていました。病気がちで身体が弱い弟は兄に頼り、兄は学識が高い弟から君子の道を教えてもらっていました。宇道稚郎子の実妹、八田王女が可愛く、気になっていることも、大雀がしばしば宇治を訪れる理由でしたが、時には二人を高津宮に招くこともありました。
 王となる弟を補佐するという、父王との約束を忠実に果そうとする大雀は「どうしてすぐに王位につこうとしないのか」と毎回、詰問しますが、宇道稚郎子は王仁から学んだ君子道を盾に、あくまで王位を兄に譲ります。
「弟の身で、まだ学識が足りない私が王位を継いで天業に登れましょうか。大王たる者は風姿がすこやかで、仁孝も遠くまで響き渡り、歳も長じていてからこそ、天下の君たる資格があります。先王が私を皇太子に任じられたのは、能力ではなく、末っ子の私を可愛がってくれたからにすぎません。宗廟・社稷に奉仕することは大事な事柄ですが、私はまだ不束者で王として不十分です。昆(兄)が上で季(弟)は下に、聖人は君となり愚人が臣下となるのは古今の常識です。疑うことはせずに、すぐに王位を継いでください。私は家臣として補佐をいたします」。
 大雀は「先王は『一日たりとも王位を空白にしては為らない』とおっしゃったではないか。父王は明徳な者を選んで王位継承者とされたのだ。賢いとはいえない私が、先王の遺訓を破ってまで弟の願いに従うことはできない」と答えますが、お互いを尊重しあう二人は譲り合いを続けます。

 両人とも王位への執着は希薄でした。宇道稚郎子は元々、病弱な小柄で偉丈夫ではありませんでしたし、中国の典籍を極めたいと学問の道を志向していました。一方の大雀王子も王位への野望は薄く、皇后の座をせつく正后の磐之媛や磐之媛一族から距離を置いていたい気持ちもあって、都から離れた難波でのんびりと過したい願いが勝っていました。
 そんな二人の背後では、王位継承をめぐって宇道稚郎子を担ぐ勢力と大雀を担ぐ勢力が睨みあっていました。宇道稚郎子を担ぐ勢力は母の宮主矢河比売が出自した和邇氏が中心でした。ホムタ王が寵愛した宮主矢河比売は他界していましたが、兄弟の口子と建津は本家の米餅搗大臣からの強い後押しを受けて、早く即位するように宇道稚郎子をしきりにつつきます。和邇氏と肩を並べる大和生粋の名家である意富(おほ)氏を筆頭に、畿内の名族や中小氏族も宇道稚郎子派でまとまりましたが、弱みは軍事力に劣っていることでした。
 大雀を推する勢力の中心は葛城襲津彦の子供たちでした。大雀の正后として皇后の座を手中にしたい磐之媛は玉田宿禰、葦田宿禰、的戸田(いくはのとだ)宿禰の三兄弟を煽ります。これに生まれた日が同じなことから、大雀に親しみを感じている平群木莬宿禰を筆頭に任那代表部の軍部の実権を握っている武内宿禰に発する新興勢力が組みしました。強みは半島での実戦でつちかった軍事力でした。
 尾張国造系に属す品陀真若の三姉妹がホムタ王の后となって、大雀や大山守など五王子を産んでいたことから、尾張氏も王位継承に口出しができる立場にありましたが、尾張国造系と大和尾張系との折り合いが悪いこともあって、蚊帳の外の存在となっていました。

3.人質、新羅の美海王子奪還

 王位の空白が続く中、新羅では王の交代劇が進行していました。本来の王であるべき甥の訥祇(とつぎ)の存在が煙たい實聖王は、ホムタ王が崩御した翌年418年、高句麗での人質時代の知人を招き、訥祇暗殺を依頼しました。知人は外出した訥祇を追って襲おうとしましたが、訥祇の容姿や気概が爽やかで優雅であり、君子の風格を備えているのを見て感心し、心変わりをしました。
「貴公の国王は私に貴公を殺させようとした。今、貴公を見るにつけ、暗殺することは忍び難い」と告げて高句麗に戻って行きました。これを聞いた訥祇は意を決して王城を攻撃し、實聖王の排斥に成功して第19代王につきました。
 訥祇王は即位後、直ちに宝海と美海の奪回策に取り組みました。高句麗に人質となっていた宝海は訥祇を王としての風格を認知した高句麗人を通じて、うまく釈放に成功しました。次は391年以来、倭国に人質となっている美海(微叱許智伐旱みしこちほつかん)の奪還でした。訥祇王は汙礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智等(ほらもちら)の三人を使節として倭国に派遣しました。

 三人は応対した高官に訥祇王の伝言を伝えました。
「美海さまは人質となってからすでに27年が経過しております。兄の訥祇王は帰国させて、せめて父母の墓参りをさせたいとせつに願っております。そこで自分の王子と美海の交換を要望しております。交換は新羅南部の倭国領で行いたいという意向です」。
 高官から訥祇王の願いを聞いた宇道稚郎子と大雀は「君子の仁」について論議をしていたたこともあり、君子の憐憫の情にそって美海の帰国に同意しました。その付添いを葛城襲津彦の息子である的戸田宿禰に命じました。
 対馬に到着した一行は鉏海(さひのうみ)の湊に宿りました。その夜、 毛麻利叱智たちはひそかに地元の漁師を金銀で篭絡して船と水手(かこ)を手配して、美海(微叱旱岐)を新羅に逃がしました。蒭霊(くさひとかた)を造って美海の代りに床に置いた後、憔悴しきったふりをして的戸田宿禰の許に駆けこみ、「美海さまが急死されてしまいました」と涙を流しました。的戸田宿禰は念のため、部下を寝室に遣わして確認させたことから、毛麻利叱智たちの猿芝居が明らかになりました。激昂した的戸田宿禰は新羅の使者三人を捉えて檻中(うなや)に納め、火をつけて焚き殺してしまいました。
 慶州の王宮では27年ぶりに三兄弟が揃い、祝宴が催されましたが、臣下たちの面前で失地回復に向けて協力し合うことを誓いました。訥祇王は富国強兵策を進めながら、徐々に高句麗からの従属的体制からの脱却を謀りました。百済に接近して両国が同盟して高句麗に対抗していく姿勢を強めると同時に、輪国軍の管理下にある新羅南部の奪還に動き出しました。

4.大山守の乱

 宇道稚郎子と大雀による王位の譲り合いが続く中、ホムタ王の正后、高城入姫の長男である額田大中彦と次男の大山守は正后の王子で年長でもある自分たちが本来なら王位を継ぐはずであると、父王が皇太子に立てなかったことを怨んでいました。とりわけその恨みが強い大山守は「自分が天下を取ったら、屯田だけでなく、山守部の統括も任せよう」と兄に耳打ちしました。
  弟のそそのかしに乗った額田大中彦は倭国内にある屯田と屯倉(みやけ)を手中にしようと、屯田司である出雲臣の祖、淤宇(意宇。おう)宿禰を訪れました。
「山林を管轄する山守部はホムタ王の遺言により、大山守の所有物となった。倭国の屯田は元々、山守部が管轄する土地であるから、と弟は私に管轄を依頼してきた。今後は汝に代って私が司となる」と言い渡しました。
 不審に思った淤宇宿禰が宇道稚郎子に直訴しますと、「私ではなく、大雀に問いなさい」との返答でしたので、「私が管轄している屯田を大中彦さまが奪い取ってしまいました」と大雀に泣きつきました。そこで大雀は倭直の祖麻呂(おやまろ)に「国内の屯田は山守部が管轄することになっている、という声が上がってきたが、実際はどうなのか」と問いますと、「それは私が関知する領域ではありません。事情に通じているのは弟の吾子籠だけですが、あいにく弟は 韓国に遣されて不在でございます」との返答でした。
「それなら急いでお前が韓国に行って、吾子籠を連れ戻してきなさい」と大雀が命じました。
 祖麻呂は淡路島の海人80人を漕ぎ手にして、昼夜ぶっ通しで半島まで往復して吾子籠を連れ帰ってきました。
 吾子籠は大雀の面前で証言しました。「屯田制度はイクメ王(垂仁天皇)の治世下で皇太子の大足彦(景行天皇)に科して定められました。その際の勅旨では『倭国の屯田は天下を治める大王の直轄地である。大王の王子と言えども、世継ぎの太子でなければ、管轄できない』と伝えております。ですから屯倉は山守部の管轄と申すのは誤りです」と、大中彦の主張を否定しました。
 そこで大雀は吾子籠を額田大中彦王子の許に遣って、その旨を通知しました。大中彦王子は不満気ではありましたが、しつこい食い下がりもせずに引き下がりましたので、大雀と宇道稚郎子はあえて罰することはしませんでした。用心した大雀は念のため、額田大中彦と大山守の動静を監視するように命じました。

「こうなれば、実力を行使するしかない。皇太子を殺して、王位に登るしかない」と大山守は挙兵を決意し、ひそかに兵卒の手配を始めました。
 大山守の動向を監視していた諜報者から謀反の報告を受けた大雀はすぐに宇道稚郎子に知らせました。急報に驚いた宇道稚郎子は、宇治川を見下ろす山上に絹の幕を張り巡らして仮屋を立て、配下の舎人を影武者として呉床(あぐら)に坐らせ、家臣や下人を行き来させて、あたかも自分が陣取っているように偽装させました。その後、兵卒を率いて川辺に下り、兵卒を草むらに潜めさせました。船と梶を整え、さね葛(かづら)の根をついて作った滑(なめ)し汁を船中の簀椅(すのこ)に塗り、踏むと滑り倒れるように仕掛けました。宇道稚郎子は布の上衣と褌に着替えて賎し人の恰好となり、梶を取って船に乗り込みました。
 夜半に数百の兵士を率いて宇治に向った大山守は、宇治川の手前で兵士を隠し伏せた後、鎧の上に衣をまとい、偵察を兼ねて河の辺に行くと、都合がよいことに客待ちをしている船頭を見かけました。船頭が漕ぎ出すと、山上に飾り立て、人が出入りする一画が望めました。宇道稚郎子の策略には気付きません。梶を執っているのが弟自身であることも知らず、「弟はあそこにいる。攻め易そうだ」と作戦を練ります。
 大山守は船頭に「あそこの山上に大暴れをする大猪がいると聞いて、退治にやってきた」と話しかけますと、「それは無理でございましょう」と船頭が答えます。「どうしてか」と怪訝な顔で問いますと、「これまでも退治をしようとする輩が幾度もありましたが、誰も退治ができませんでした。ですから、そう申すのです」とぶっきらぼうに答えました。
 川中にさしかかると、船頭が突如、船を傾けました。簀椅に坐していた大山守は水中に滑り落ちてしまいました。浮び上った大山守は、水のまにまに流れ下りながら、歌を叫びました。
「宇治川の渡し場にいる 棹を操るのが敏捷な人よ 私の味方に来てくれよ」

 すると草むらに潜んでいた宇道稚郎子の兵士たちが、大山守に向けて無数の矢を放ち、訶和羅(河原村)の前に到って沈んでしまいました。沈んだ場所を鉤で探りますと、大山守の衣の中の甲(よろひ)に引っ掛って、「かわら」と鳴りました。そのため、その地は「訶和羅の前」と呼ばれるようになりました。
 川中から大山守の遺骸を掛き出して、宇道稚郎子が歌いました。
「宇治川の渡り場に生い立つ 梓弓(あづさゆみ)や檀弓(まゆみ)の木よ 
その木を伐ってやろうと心では思うけれども 討ち取ってやろうと思うけれども
本辺(もとべ)を見ては 君を思い出し 末方(すえべ)を見ては 妹を思い出し
心の痛むほどに それにつけて思い出し 悲しいほどに これにつけて思い出し
だから伐り倒さないままとなった 梓弓や檀弓の木よ」

 大山守の遺骸は、那良山に葬られました。この大山守は土形君、幣岐君、榛原君等の祖です。

5.大雀の即位

 宇道稚郎子と大雀の王位の譲り合いが続き、王位が空位のまま、いつしか三年目に入りました。
困り果てたのは鮮魚を王に献じる海人でした。鮮魚の苞苴(おおにえ)を莬道宮に届けますと「私は王ではない。難波の高津宮に届けなさい」とつき返します。高津宮に献じますと、大雀は「莬道に献じなさい」とにべもありません。往還する間に、苞苴の魚は腐ってしまいます。
 その繰り返しに苦しんだ海人は、泣きながら魚を捨てます。「海人が自分の持ち物で泣いてしまうとは」という諺はこれに発します。
 次第に宇道稚郎子は痩せ細り、衰弱していきました。元々、病弱ではありましたが、ひそかに毒をもられたせいだ、との噂も飛び交いました。
 宇道稚郎子が危篤、との急報を受けた大雀は難波から馳せて莬道宮に到着しました。太子の意識が不明になってから三日が経過していました。慟哭する大雀は髪を解いて宇道稚郎子に跨り、「我が弟、太子よ」と三度、叫んで揺り動かしますと、宇道稚郎子が目を開きました。
「別れは悲しいですが、死が迫ってきました。これも天命です。誰も止めることができません。遠路を駆けつけてくださり、感謝にたえません。あの世で父王に出会うことがあれば、兄が聖王の座を継いでくれたことを奏します。唯一、気になるのは妹、八田王女の行く末です。兄の后にと願うわけではありませんが、せめて宮女の一人として見守っていただけたら」と語りつつ、息を引き取りました。
 皆がむせび泣く中、宇道稚郎子は莬道の丸山に葬られました。

 王位を継いだ大雀は首都の大和ではなく、住み慣れた難波の高津宮に王宮を構え、周囲を驚かせました。皇后の座を射止めて得意満面の磐之媛は不平たらたらでしたが、大雀は意に介しません。都には二派の暗闘の余波が残り、その渦中に巻き込まれたくなかったことも理由の一つでしたが、最愛の日向髪長媛が近くに住んでいることが難波に執着した最大の理由でした。
 同年420年、百済の直支王(治世405~420年)が薨りました。嫡子の久爾辛(久介辛くにしん)が王に立ちましたが、まだ年少だったことから、久爾辛の母が摂政をとりました。倭国代表部がある金官国に常住して、百済と倭国を結ぶ仲介者となっていた木満到は摂政に取り入り、相婬けて国政を執り仕切るようになりました。しかし木満到は暴政を重ね、困りきった家臣たちは大雀王に直訴をしましたので、大雀王は直ちに木満到の排斥を命じました。
 同じ420年、華南では宋の劉裕(武帝)が東晋を滅ぼし、南朝の宋(420~479年)の時代が始まりました。百済に派遣していた使者から報告を受けた大雀王(倭王・賛)は、弟と王仁や阿知使主親子からこれまでの経緯を聞いていたこともあり、新王朝への朝貢を決めました。
 この二つが大雀王の対外政策の初仕事となりました。


          応神朝初期の三者三様  ―― 完 ――

          謎の四世紀解読 全四編  ―― 完 ――


応神朝初期の三者三様  No.8

 応神朝初期の三者三様  (「謎の四世紀解読」 第四篇)

その3.誉田(品田和気)王の戸惑い

〔8〕ホムタ王の晩年  

1.兄媛の吉備帰郷

 410年3月5日、ホムタ王(誉田、品陀和気。応神天皇)は后の兄媛(えひめ)を伴って難波に行幸して、大隅宮に滞在しました。10日ほどが経ち、高台に登って二人で遠方の景色を眺望していると、兄媛が西方を見やりがら歎息をついています。吉備臣の祖、御友別(みともわけ)の妹である兄媛はホムタ王より10歳ほど年上でしたが、幼い頃から侍女として姉役を務めていたことから、お互いを知り尽くしている間柄でした。ホムタ王はすぐに兄媛の様子に気付きました。
「何で歎いているのか。どこか加減が悪いのか」と問いますと、「最近、亡き父母への思慕が募っております。西方を見ると、溜息が出てしまうのはそのせいです。できますなら、吉備に戻って両親の墓参りをすることをお許しください」と里帰りを願い出ました。
 兄媛がホムタ王の世話役として都に上ってきてから、すでに40年以上が経過していました。白髪や小じわが増え、孫がいてもおかしくない年齢となっていました。里心が募ったことを理解したホムタ王は帰郷を認めました。高速船「枯野」を特別にあてがい、淡路の御原(三原郡)の海人80人を水手(かこ)として、410年4月に難波の大津から吉備に戻しました。枯野船は394年に伊豆国が造船して献じた官船でした。
 枯野船が遠のいていく風景を高台からじっと見つめながら、歌を口ずさみました。
「淡路島は小豆島と二つ並びとなっている 私が立ち寄りたい島々も 皆二つ並んでいる
永年、吉備の兄媛と二つ並びとなっていたのに 
私は独りにされてしまった 誰が遠くへ行き去らせてしまったのだ」

 五か月後の410年9月6日、ホムタ王は淡路島に狩猟に出掛けました。峻険な峯に谷川が入れ込み、芳香を放つ草木が鬱蒼と繁り、大鹿、鴨、雁の姿が多い淡路島はお好みの狩場でした。西海岸に出て小豆島を眺めていると、ふいに吉備に戻った兄媛が恋しくなりました。すぐに再会したい衝動にかられるまま、小豆島経由で吉備の穴海に向いました。
 兄媛はホムタ王の突然の来訪に驚きの声をあげましたが、そこまで王が気にかけてくれたことに感激しました。その晩、二人は睦まじい夜を過しましたが、兄媛は苦笑交じりに「枯野はもうぼろ船になって水漏れがひどく、裳が濡れて往生しました」と愚痴をこぼしました。
 しばらく吉備津に滞在することに決めたホムタ王は、数日後、葉田(服部郷)の葦守宮に移りました。すると兄媛の兄の御友別が参赴し、一族総出で大饗宴を催しました。
 御友別は上道(かみつみち)国を治めていた大吉備津彦系の系譜が衰微してしまったことから、備前と備中の双方を治めていましたが、還暦をとうに過ぎていたことから、隠居をする意向をホムタ王に伝えました。そこでホムタ王は川嶋県(玉島市)を御友別の長子、稲速別に封じました。稲速別は下道臣の始祖となります。上道県を中子の仲彦に封じました。仲彦は上道臣・香屋(賀夜、加邪)臣の始祖となります。三野(御野)県(岡山市西部)を三男の弟彦に封じました。弟彦は三野臣の始祖となります。波区芸(はくぎ)県を御友別の弟、鴨別に封じました。鴨別は笠臣の始祖となります。苑(その)県を御友別の兄、浦凝別に封じました。浦凝別は苑臣の始祖となります。兄媛は晩年は故郷で過すことを願いましたので、機織りを統轄する織部(はとりぶ)を賜いました。

2.吉備邪馬台国と帯方郡の子孫

  阿知使主(あちのおみ)に従って来朝した一族の中に、歴史好きの者がありました。自分の先祖が帯方郡の官僚であったことを誇りにしていました。倭国に来る前から「三国志」(297年までに成立)の「魏書」烏丸鮮卑東夷伝を写本版で読み、「倭人条」に紹介されている、魏の帯方郡と交渉があった邪馬台国に興味を抱いていました。いつか倭国へ行ってみたいと夢想していましたから、阿知使主が倭国移住を決めた後、倭国行きに真っ先に応じた者の一人となりました。
 三国志で紹介されている邪馬台国は当然、首都がある大和国と思い込んでいました。ところが都に入ってみると、それらしき確証が見つかりません。都の人に帯方郡、楽浪郡、魏や晋の名をあげても、「どこの国のことだろう」ときょとんとして、理解する人がいませんでした。初めの頃は倭国では別の名称で呼ばれているのだろう、と解釈していましたが、半島の北西に超大国が存在していることは何となく承知してはいても、秦、漢、魏、晋などの名前を知っている人は皆無であることに気付きました。魏の帯方郡が狗奴国との争いで邪馬台国に派遣した「張政」の名を挙げても、魏が邪馬台国に贈った「金印」の話をしても、皆、首をかしげるばかりで、ピンと来て反応を示す人もありません。1世紀半以上も前の出来事で、人物も五代から七代前となりますので、すでに忘れ去られていても不思議ではありません。それにしても何らかの言い伝えは残っているはずだが、と一年が経つうちに、どうやら大和国は帯方郡、魏や晋と直接の接触はなかったようだ、との思いを強めました。

 そのうち、吉備の賀陽(賀夜、加邪)郡という地に半島の伽邪(加羅)地方や帯方郡出身者の子孫と名乗る人たちが住んでいるらしい、という話を聞き込みました。たまたま漢字や漢籍を学びだしていた役人が吉備国に下ることになり、役人のお供として吉備に検証に行くことにしました。
 吉備津に入ってみると、すでに吉備の里人との同化が進んでいたものの、鬼城山の山麓地帯や高梁川右岸の地域に半島の伽邪地方や帯方郡出身の子孫を名乗る人たちが居住していました。帯方郡や周辺の地名の読み方が原音と似ており、帯方郡の末裔であることを示す証拠の品も見せました。
 ウラ(温羅)と弟のオニ(王丹)が率いる軍勢が吉備津彦兄弟と戦い、ウラ軍団を破った吉備津彦兄弟が吉備国の支配者となった伝承も聞きました。ウラは張政が邪馬台国を去るに当って、後を託した帯方郡出身の武将だった、と信じきっています。ウラの首は刎ねられた後、さらしものにされましたが、何年たっても大声を発して唸り響き続けました。そこで吉備津彦兄弟はウラ集団を弾圧せずに、融和政策に切り替えてウラ兄弟を祀ることを認めるとウラの唸り声が消えた、という伝承や、御友別が若建吉備津彦の五代目の子孫であることを知り、大和に敗れた吉備が三国志に紹介されている邪馬台国、吉備を破った大和が狗奴国だった、との確信に至りました。
 ウラの首塚は首部(こうべ)で祀られていましたが、足守川左岸の丘上にある鯉喰墳丘墓と楯築墳丘墓に祠を建て、大事に守っていました。鯉喰墳丘墓は「ヒメミコ(姫巫女)」の墓、楯築墳丘墓はヒメミコの先代王の墓ということです。
 「ヒメミコ」を「卑弥呼」と解釈すると、ヒミコを継いだトヨ(台与)の墳丘墓も残っているはずです。
「トヨさまは、オオビビ王(大毘毘、開化天皇)の后、人質として大和に招かれましたが、オオビビ王が急死されて宙に浮いてしまいました。幸運にも王位を継いだミマキ王(御真木入日子印恵、崇神天皇)の知遇を受け、厚遇を受けたようです。お墓は大和の纏向にある箸墓と聞いております」。
 その話は役人の上司を通してホムタ王の耳にも入りました。大和が破った吉備王国は「魏」という中国の大国と交流があったことを初めて知ったホムタ王は「宇道稚郎子(うぢのわきいらつこ)を連れて来るべきだった」と、王仁を通じて中国に関心を持ち出している王子を帯同させなかったことを悔みました。
「その邪馬台国の王宮はどこにあったのか」。
「吉備中山の中腹に見えます吉備津宮でございます。先代まで私どもが住んでおりましたが、ぼろぼろになって、とても住める状態ではなくなったため、足守の屋敷に引越して参りました」。
 ホムタ王は邪馬台国時代の王宮である吉備宮を見学しました。二つの豪壮な建物を合体させた、大和や畿内では見たことがない壮大な造りに感銘を受けたホムタ王は修復を命じました。

3.吉備の弓月君

 数日後、ホムタ王は高梁川左岸の正木山の右麓地域に定住した弓月君の邑を訪問してみました。吉備に落ち着いて丸4年が経ち、邑人たちは吉備は「約束された地」であった、と吉備の大地に満足していました。晴天が多い吉備は温暖で暮らしやすく、雨量は少ないものの、吉井川、旭川と高梁川の三大河川が豊富な灌漑用水を供給して、河川沿いに水田耕作が可能な地が残っていました。高原地帯は養蚕向けの桑の栽培に適していました。土器の製造に向く粘土も豊富にありますし、山中には銅が産出します。
 それに加えて、自分たちを熱心に誘致してくれた賀陽郡の人たちから、播磨西部から吉備、出雲に至る中国山地では花崗岩が風化してできた、良質の鉄分を含む砂鉄帯が存在することを聞きました。山中を案内してもらい検分したところ、蹈鞴(たたら)製法で鉄生産が可能であることを確かめました。それをホムタ王に報告したところ、「自国で鉄を産出できるとは」と大満悦でした。
「私どもは秦王朝の末裔でございます。ここを『秦』の地名とするお許しを賜れますなら」と懇願すると、機嫌がよかったホムタ王は願いを聞き入れました。
 弓月集団がもたらした新しい技術の導入が刺激となって、吉備は大発展時代に入りました。鉄製農機具の普及で米作・畑作の耕作地が増大します。養蚕と絹織物産業、穴窯を使った須恵器の製造も興隆していきます。さらに砂鉄から生産される鉄を使った刀剣作りも注目を集めていきます。吉備は大和盆地だけでなく、畿内全体を越える富と財力を蓄積していきます。
 高梁川から右岸に分かれる支流が足守川と合流し、足守川河口の川入へと注ぐ吉備津平野の肥沃な三日月地帯は、吉備邪馬台国の滅亡後、人口が半減していましたが、次第に往時に匹敵する人口へと増加していきました。

4.高句麗の好太王からの非礼な文(ふみ)と枯野船騒動

 都に戻ったホムタ王は宇道稚郎子王子と王仁を呼び、大和が征服した吉備王国は「魏」という中国の大国と交流があったことを話しました。王仁は三国志で紹介されている邪馬台国の名を周知していましたが、「邪馬台国はてっきり大和国と思い込んでおりましたが、吉備国でしたか」と驚いた様子でした。「中国の王朝に遣使を送って庇護を受けることを冊封制度と申します。百済も近肖古王以来、呉地方(華南)にある東晋に遣使を遣っております」との王仁の言葉からホムタ王は冊封制度の存在を知りました。
 411年9月、高句麗の好太王が使者を遣ってきました。使者が差し出した好太王からの親書をホムタ王は漢字を読めるようになっている宇道稚郎子に渡しました。「高句麗王が倭国に教えを授けよう」という書き出しから始まる書面を読むうち、王子は怒りで震えだし、読み終えた後、使者を責め、親書を破ってしまいました。王子は激昂が覚めないまま、「東晋に遣使を遣り冊封体制に入って、高句麗に圧力をかけてみたらどうでしょうか」と提案しました。
 その翌年412年になって好太王が薨り、王子の長寿王(治世413~491年)が新王を即位しました。新羅の實聖王は、 本来の王であるべき甥の訥祇(とつぎ)に手を出すことはさすがにはばかれましたので、高句麗の新しい王への忠誠を誓う証として訥祇の弟、宝海を人質として高句麗に差し出しました。實聖王は391年以来、倭国に人質となっている訥祇の二番目の弟、美海のことも頭に浮びました。高句麗の人質となって監禁されているうちに、高句麗に忠誠を誓うように心変わりした自身の体験を踏まえ、美海が倭国側に寝返って新羅討ちに加担したとしたら、と不安にかられました。そこで實聖王は倭国に遣る使節団に美海の暗殺を命じました。

 同じ412年8月、ホムタ王は吉備で兄媛が老朽ぶりをこぼしていた「枯野船」の廃船が決まりました。「枯野は18年もの長い間、官船として活躍してくれた。野ざらしにして朽ちらすのでなく、その功績を後世に伝えるために、何か妙案はないだろうか」と群卿に問いました。そこで群卿は枯野を解体して薪にして、その薪で海水を焼いて五百籠もの塩を仕上げ、諸国に「王の塩」として配布しました。感激した諸国はその礼として、一籠につき一艘の割合で五百艘を貢上しました。
 献上された五百艘が集結した武庫水門には、たまたま新羅の使節団の船が停泊していました。続々と集まる船を眺めていた水兵の一人が「人質の美海を乗せた護送船が混ざっている」と言い出しました。他の者も「新羅風の衣服を着た、美海そっくりの人物を見かけた」とも告げましたので、使節団は「美海暗殺の好機到来」と色めきたちました。その夜、新羅船から放たれた火は強風にあおられて次々と献上船に燃え広がり、五百艘の大半が焼けてしまいました。五百艘の中に美海はいなかったことを知った使節団は失態に頭を抱えましたが、あくまで失火であったと言い張ります。急報を受けた實聖王は慌てました。美海暗殺の密令がばれてしまうと、倭軍が報復で新羅に攻め込んでくる恐れがあります。實聖王は失火の詫びの印しとして、直ちに木工に秀でた匠者(たくみ)集団を倭国に献じました。匠者集団は猪名部等の始祖となります。

 焼け残った枯野を使って琴が作られました。枯野琴は音がさわやかで、遠くまで響き渡ります。その音色に魅せられたホムタ王が歌を詠みました。
「枯野を塩焼きの材として焼き 焼け残った余りで 琴を作って掻き鳴らすと
紀淡海峡の由良の瀬戸の海石に生えているナヅノキが 潮にうたれて鳴るように
大きな音で鳴ることだ」 

5.呉(華南)の東晋への遣使

 武庫での失火騒動が落ち着いた413年2月、王仁の奏上と宇道稚郎子王子たちの進言に応じて、ホムタ王は阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかのおみ)親子を東晋に派遣しました。
 倭国王の使者として百済の首都、漢城に戻った親子は、直支王に面会を求め、用件を伝えましたが、直支王は百済を捨てた二人を冷たくあしらいます。直支王は即位した翌年406年に、380年の第14代近仇首王から26年ぶりに東晋に遣使をしたものの、期待したほどの成果を得られなかったことから、「東晋に朝貢したところで、何の役にも立たない」と二人を突き放してしまいました。
 途方にくれた親子は、中国に渡る船を確保しようと黄海の海岸線をさ迷ううちに、高句麗の占領地に紛れ込み、国境を警備する兵士に捕まってしまいました。二人は都に連行され、しばらく監禁されてしまいます。
 その頃、華北では376年に前秦が滅亡した後、西秦、後秦、後燕、北魏等が乱立し、不安定な状態が続いていました。いずれかの国が即位したばかりの長寿王に襲い掛かってくる不安がありました。「監禁している倭国の捕虜を活用して、安全策として華南の東晋に朝貢してみられたら」と家臣たちが長寿王を促しました。
 牢獄から出された阿知使主と都加使主親子は、うって変わって丁重になった扱いに戸惑いながら、高句麗王の策略には気付かず、久礼波と久礼志の二人を東晋まで導者として同伴させる、との申し渡しに疑念も抱かず、素直に喜びました。
 永らく百済と同盟していた倭国が高句麗側についたことも報告した高句麗の遣使の後、阿知使主と都加使主を謁見した東晋の安帝は、機織りの工女として、兄媛と弟媛、呉織、穴織の四人を与えました。

 高句麗が倭国の使者を伴って東晋に朝貢したことを知った百済の直支王は動揺を隠すことができません。倭国との同盟を再確認する証しとして、415年2月、婦女七人をつけて、実妹の新斉都媛を倭国に差し出し、翌年には倭国に白綿十反を献じ、東晋へも遣使を遣りました。
 ホムタ王と宇道稚郎子王子は阿知使主と都加使主親子の帰還が遅いことを心配していましたが、百済の使者から、阿知使主等が高句麗側に寝返ったことを知り、激怒しました。

6.後継者選択とホムタ王の死

「そろそろ、宇道稚郎子を後継王に決めたことを公けにしておかないと」と判断したホムタ王は、416年正月8日、世間が後継者の候補と憶測している、高城入姫の次男、大山守(おおやまもり)と仲姫の長男、大雀(大鷦鷯、おおさざき。仁徳天皇)の二王子を召還しました。
「お前たちは年上の子と年下の子のどちらがいじらしいと思うか」と問いますと、大山守は「もちろん、年上の子です」と即答しました。その答えにホムタ王が顔を曇らせたのを見た大雀は、父王から髪長媛を譲ってもらって以来、常に父王に忠実であることを心掛けていたこともありましたので、「年上の子はすでに成人しておりますので何の懸念もありませんが、年下の子はまだ未熟ですので不憫に存じます」と答えました。
 我が意を得たホムタ王は「大雀は私の思いを答えてくれた」と満足げに微笑みながら、「後継王は宇道稚郎子とする。大山守は山部(林業)と海部(漁業)を統括しなさい。大雀は国事を統括して宇道稚郎子を補佐しなさい」と宣告しました。
 家臣たちは宇道稚郎子を後継者として認知しましたが、最も慌てたのは大雀の正后、磐之姫でした。
「皇后の座は私のものになるはずなのに」。
 父の葛城襲津彦は頼りにならないことを熟知している磐之姫は、すぐに兄弟の葦田宿禰と玉田宿禰に相談を持ちかけました。

 417年2月、ホムタ王は畝傍山の麓、明宮(あきらのみや。軽島豊明宮)で崩御しました。


応神朝の三者三様    No.7

 応神朝初期の三者三様  (「謎の四世紀解読」 第四篇)

その3.誉田(品田和気)王の戸惑い

〔7〕亡命者の受け入れ
  
1.新羅の高句麗傀儡王誕生

 402年、新羅の奈勿王が薨りました。西暦356年から46年間に及ぶ長い治世でした。辰韓地方を初めて統一させたものの、王朝は次第に膠着化、家臣間の勢力争いや賄賂などで疲弊化していき、南部は倭軍に奪われて高句麗に援けを乞わざるをえなくなるほど、寂しい晩年となってしまいました。三男の美海は391年に人質として倭国に渡っていましたが、長男の訥祇(とつぎ)と次男の宝海は健在でした。本来ならすでに成人していた訥祇が王位を継ぐのが自然な流れでしたが、高句麗の好太王の意向を受けて、前年に高句麗での人質生活から母国に帰還した訥祇兄弟の叔父、實聖が第18代王(麻立干。 治世402~417年 )に立ちました。実質的に高句麗の傀儡政権の誕生で、訥祇と宝海は窓際に追いやられてしまいました。

 半島は三韓を挟んで、北の高句麗と南の倭軍が牽制しあう構図となりましたが、新羅の親高句麗王朝の成立により、高句麗の脅威が増幅したことを恐れた百済の阿花王は倭国との関係のさらなる緊密化を進めます。402年5月、対高句麗での勝利の縁かつぎの趣旨もあったのか、百済の阿花王は使者を倭国に遣り、大きな珠を求めました。翌年403年2月に阿花王は縫衣工女(きぬぬひをみな)の真毛津(まけつ)を進上しました。真毛津は来目衣縫(くめのきぬぬひ)の始祖となりました。
 かねてから自国の工芸技術、産業技術を発展させていくことに意欲的になっているホムタ王(誉田、品陀和気。応神天皇)が真毛津の来朝に大満足したことを伝え聞いた阿花王は、続いて手人韓鍛(てひとからかぬち。鍛冶師)の卓素(たくそ)と呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上して、鍛冶と機織り技術の発達のきっかけとなりました。
 さらに酒の醸造に秀でた仁番(別名は須須許理)を献じました。須須許理は秦造の祖となります。
ホムタ王は須須許理が醸造して献じた大御酒を飲み干して、歌いました。
「須須許理が醸造した酒で 吾は酔いしれた 
災いをはらう酒 楽しく笑いたくなる酒に 吾は酔いしれた」
 こう歌いながら王宮を出て、大坂の道中に居座る大石を杖で叩くと、大石は走り去ってしまいました。そこで時の人は「堅い石すら、酔人を嫌って逃げていってしまう」と頷き合いました。

2.辰国の弓月君

 時期を同じくして、弓月君の代表者と名乗る人物が403年に百済から訪れて来ました。
「弓月君は今は百済国の一員となっておりますが、かって半島南部の三韓の盟主の座にいた辰国の技能集団で、秦の始皇帝で名高い秦帝国の末裔でございます」。
 辰国の支配層は、実際には秦末期から前漢成立の混乱時に中国東北部から流れてきた雑多な人々の集団でしたが、自分たちは中国を初めて統一した秦帝国の末裔であると自称し誇りとしていました。弓月氏は前漢以来の伝統技術を継承しながら、大田を中心に忠清南道東南部から忠清北道西南部に在住していました。
 ホムタ王は半島の西に巨大な国が存在することは知っておりましたが、秦から前漢、後漢、魏、西晋、東晋に至る歴史には無知でした。しかし「辰国」の名は母が生存中にしばしば口にしていましたので聞き覚えがあり、「辰国に由来する」と名乗る弓月君に興味がひかれ、さらに巨大な国から様々な技術を受け継いできている話に着目しました。
「ご承知のように、高句麗が南下して新羅は高句麗の傀儡国となり、百済は弱体化して領土も半分となってしまいました。このままでは百済は高句麗に呑み込まれてしまう危惧があります。中国文化の半島での拠点だった楽浪郡を滅ぼしたのは高句麗です。私どもは夷狄(いてき)の高句麗や北の蛮族である満州系騎馬民族などに隷属したくはありません。百済に見切りをつけ、いっそのこと貴国に移住して、辰国伝来の文化を保ち続ける決意をいたしました」。
「そこで己が国百二十県の人夫を領いて渡来しようと、大加羅国(高麗)に入り金官国へ南下しようとしました。しかしながら生憎なことに、高句麗の力を背景に勢いを復活させた新羅は、百済攻めに向けて卓淳国(大邱)と比自ほ国(ひしほ、非火。昌寧)の間の国境地帯を押さえた後、さらに西に進んで大加羅国と多羅国(陜川)の間の国境地帯を占拠して塞いでおりました。高句麗と新羅は、後漢以来、私どもが蓄積してきた技術や秘伝が倭国に移管することを危惧していることもあります。集団は大加羅国で足止めとなって、身動きができなくなっています。貴国のお力で何とか弓月集団の来朝を援けていただきたい」。

 ホムタ王は半島の先進技術を取り入れる絶好の機会であることを悟り、弓月君集団の招聘に大乗り気となりました。「この程度の任務なら、さしもの葛城襲津彦でもたやすいことだろう」と性懲りも無く襲津彦を重用して、弓月集団を召してくることを命じました。
 襲津彦は熟考もせずに安請け合いをして、わずか200人の兵卒を連れて、海を渡りました。腹違いの弟、平群木莬(つく)宿禰たちが牛耳る任那代表部には連絡もせずに、金官国を素通りして、一路、大加羅国に向いました。多羅国の陜川までは順調に進みましたが、大加羅国の国境に近付くと新羅兵に阻まれてしまい、立ち往生する羽目になってしまいました。

3.帯方郡の故地での倭軍の敗北

 金官国の任那代表部には百済と倭国を結ぶ仲介者として、木満到が常駐していました。30年ほど前の、369年の倭軍・百済連合の際に、百済側の将軍として活躍した木羅斤資が、 戦役中に目星をつけた新羅の女性を娶って誕生した息子でした。木満到は20歳代半ばの好青年でしたが、歳が近いこともあって、代表部の平群木莬宿禰と親しい友人となりました。
 木満到の野心は、母は新羅人であるものの、功を立てて百済王朝で立身出世を遂げることでした。百済国を存続させるために、少なくとも高句麗の南下を防ぐために倭軍に高句麗勢力を叩いてもらうことを画策しました。昵懇の仲となった木莬宿禰に高句麗征伐をけしかけていきます。木莬はどじな兄、襲津彦よりも有能な武将と自負していました。失脚した父の野望を実現させることが目標でした。高句麗を叩けば三韓は倭国のものとなり、父の宿願を成就できる、そのためにはどうすれば良いかを常日頃、考えていました。木満到のおだてに悪い気もしませんので、高句麗討伐の企てに乗り気になっていきました。

 木莬宿禰と木満到は高句麗討ちの戦略を練っていきます。「高句麗は騎馬を駆使した陸上戦は強いが、水軍は手薄だ。海から攻めたらどうだろう」との木満到の提案に従って、ホムタ王には詳細を報告せずに、全羅南道と任那南部の海人を徴用して、海から高句麗を急襲する作戦を準備していきました。
 二人の誤算は、高句麗は水軍にも長けていたことでした。396年に高句麗は虚を突いて海路から漢江に入り、百済の首都、漢山城をついた後、 百済の58城700村を陥落させた実績もありました。倭軍の船団は404年、高句麗の領海に入り、 帯方郡の故地で高句麗の水軍と激突しましたが、地勢を熟知する高句麗の水軍に大敗を屈してしまいました。
 任那代表部で敗戦の報を受けた木莬宿禰は、敗戦の責任を取るためと、ホムタ王への言い訳をするため、と称して本国に戻りました。

4.阿直伎(あちき)と王仁(わに)の来朝

 百済の阿花王は、あわよくば倭軍が高句麗を打ち砕いてくれたら、とほのかな期待を寄せていましたが、高句麗と海戦での倭軍の敗退を受けて、高句麗の恐さを再確認しました。倭国との関係をより緊密させることを意図して、404年8月6日、阿直伎(あちき)を遣わして良馬二匹を貢りました。阿直伎は立派な横刀と大鏡も合わせて携えてきました。
 ホムタ王は軽の坂上に厩を建て、阿直伎の指導で二匹の馬を飼育しました。そこで軽の坂は「厩坂」と呼ばれるようになりました。阿直伎は学芸にも造詣が深く、儒教などの経典を能く読むことができることを知って、愛息の宇道稚郎子王子の教育係としました。宇道稚郎子は愛后、矢河枝比売との間に誕生して、8歳を越えていましたが、ますます利発さを発揮するようになり、性格も温厚なことから、ホムタ王はゆくゆくは後継王にしてみたいと願っていました。阿直伎は阿直岐史(あちきのふびと)の始祖となります。
 ホムタ王は阿直伎に「宇道稚郎子に本格的な王道学を学ばせたい。貴国に汝に勝る博士がいないものか」と尋ねました。「王仁(和邇吉師)という者が適任者でございましょう。栄山江の下流、全羅南道霊山郡に住んでおります」と阿直伎が提言しました。
 そこでホムタ王は身勝手な行動を犯した任那代表部を避け、369年の倭軍・百済連合の戦役で活躍した東国の上毛野君の荒田別と巫別(かむなきわけ)を全羅南道に遣わして、王仁を招聘することにしました。荒田別は還暦に近い年齢になっていましたが、任那諸国と全羅南道は青春時代の思い出深い場所でした。半島から東国に持ち帰った馬の放牧と飼育に成功して、上毛野国繁栄の源泉に繋がりました。「また良馬を持ち帰ってこよう」と喜々として全羅南道に向いました。
 405年2月に王仁が「論語」など数々の典籍を携えて、都に到着しました。王仁の先祖は代々、楽浪郡の官僚の家柄で、313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼした際に百済南部に逃れてきた一族に属していました。宇道稚郎子王子と学友の少年たちは漢文や論語など諸の典籍を王仁に習ひ始めました。倭国の王族や貴族の子弟が文字と漢文化を学ぶことは初めての出来事でした。王仁は書首(ふみのおびと)等の祖となります。

5.人質の百済の直支王子の帰国

 405年、百済の阿花が薨りました。 家臣たちは397年から人質になっている直支(とき)王子の帰還を倭国に求めました。ホムタ王は兵士100人をつけて帰国させましたが、帰国にあたって忠清南道南部の東韓の地を直支に賜いました。直支の帰りを待つ間、阿花王の次弟の訓解が摂政を務めましたが、末弟の碟禮が訓解を暗殺して王位を収奪してしまう波乱が起りました。しかし国人が碟禮を殺したことから、帰還した直支は第18代百済王(治世 405~420年)となりました。
 その間も倭軍と新羅、百済と高句麗の抗争は続きます。高句麗撃ちに失敗した任那代表部は新羅の首都奪還を試み、405年4月、倭兵が侵入して新羅の明活城を攻めましたが、新羅の騎兵が獨山の南で倭兵を撃破しました。
 高句麗は400年以降、西北の後燕と攻防を繰り返していましたが、404年に海から攻めてきた倭軍を一蹴した後、407年に後燕に侵攻して6城を討ち、鎧一万領を得ました。

6.弓月君集団の来朝
 
 襲津彦は多羅国の陜川で、大加羅国で足止めをくっている弓月君集団を引き連れようと 新羅兵の隙を窺っていましたが、中々新羅軍の壁を打ち破ることができません。新羅側も弓月君集団を新羅に招き入れようと粘り強く交渉をしています。任那代表部に援軍の派遣を要請する手段もありましたが、代表部に頭を下げてまで援軍を願い出ることは襲津彦の自尊心が許しません。そうこうしているうちに、いつしか3年の歳月が過ぎていました。
 いつまで待っても帰還しない襲津彦に、ホムタ王もさすがに痺れを切らしてしまいました。405年8月、「襲津彦はいつまでたっても戻ってこない。例のごとく、新羅の色仕掛けに篭絡されているかも知れない。お前たちが新羅を撃って、弓月君集団を引き連れてきなさい」と平群木莵宿禰と襲津彦の息子である的戸田(いくはのとだ)宿禰を遣りました。

 任那代表部に戻った木莵宿禰はすぐに兵士3000人を掻き集め、大加羅国に進軍しました。国境を塞ぐ新羅の警備兵たちは大軍の襲来に愕ぢて道を開けましたので、木莵宿禰な難なく弓月君集団を引き取ることができました。
 来朝した弓月君は120県からの2000人を越える大集団で、機織りに長けた女性も含まれていました。一緒に戻った襲津彦は自らの不祥事を恥じて公職を息子の葦田と玉田に譲り、本宅がある南葛城地方に引っ込んでしまいました。
 弓月君集団はホムタ王の期待をはるかに越えた、優秀な技能集団で、外部には漏らさない数々の秘伝の技法を携えていました。高句麗と新羅が倭国への移住を阻止しようとしたのも「なる程」と頷けるほどでした。宗像海人による沖ノ島ルートが本格化して、半島と倭国を行き交う輸送能力が増したことから、任那(加羅)南部諸国の工人の移住も盛んとなり、倭国は一挙に技術革新の時代に入り、食住生活だけでなく、農業も産業も大変貌を遂げていきます。

 窯業では陶質土器と軟質土器の二種類の韓式土器と性能が高いロクロが伝わりました。陶質土器はロクロを使って薄く成形した後、穴窯を使って高温の還元炎で焼成するもので、薄いが硬質な陶器で「須恵器」と呼ばれるようになりました。軟質土器は焼成は土師器と類似しており、赤みを帯びていましたが、それまでにはない器形や器種で人気を集めました。住居では中央にしつらえて煮炊きをする炉に代って、壁面に設置する竈(かまど)が紹介され、鍋や甑(こしき)を使った調理法が一般化していきます。
 先進の鍛冶技術により、鍬(くわ)、鋤(すき)、稲刈りガマなどで新型の鉄製農機具が普及していき、農作業の効率化が進みます。土木・灌漑技術も飛躍的に発展し、大規模な堰や河川の護岸施設が築造されていき、耕作不能であった土地も開拓されていきます。耳飾りや帯金具などの金属製品に金メッキを施す金工技術が紹介され、薄い鉄板をつなぎ、鋲(びょう)留めをする甲冑(かっちゅう)や、射る時間が短く連射ができる満州系騎馬民族の短弓も製造されていきます。さらに弓月君は砂鉄から鉄を生産する秘法も持っていました。

 ホムタ王は都がある大和盆地に加えて、新移住者を河内湾周辺に定住させ、低湿地帯の大規模な開拓を命じました。各国の国造や豪族は弓月集団と加羅地方南部からの渡来者の引き取りを熱心に要望しますが、とりわけホムタ王の后、兄媛(えひめ)の実兄で吉備下道(しもつみち)国の国造を務める御友別(みともわけ)は、ウラ(温羅)集団の後押しもあって、熱心に勧誘しました。ウラ集団は邪馬台国時代に帯方郡や加羅地方から渡って来た移住者の子孫でしたが、備中の高梁川右岸地域や鬼城山の山麓周辺にウラ信仰を守りながら根を張っていました。木莵宿禰の船団が難波に向う途中で、酒津や原津の湊に寄港した際に、乗船者は辰国の伝統を引き継ぐ弓月君集団であることに気付き、同胞でもある弓月集団を吉備に招き入れるように、御友別を口説きました。

7.阿知使主(あちのおみ)一族の来朝

 倭軍は新羅制圧を諦めず、407年3月に新羅の東辺に侵入し、6月には南辺を侵略して百人を掠奪したものの、宿願の首都制覇には至りません。408年2月、倭軍が対馬に軍営を設置し、新羅襲撃を企てている、との報を受けた實聖王は高句麗との関係をより緊密にしました。
 407年に百済の直支王は高句麗に挑みましたが、高句麗の防御は揺るぎません。好太王は410年に東扶余に親征して北方領土を拡大し、高句麗は全盛時代を迎えていきます。
 409年、倭国が百済に遣使して夜明珠を贈り、402年に大きな珠を倭国に求めた直支王の父、阿花王の願いを遅ればせながら叶えました。
 409年9月、百済の阿知使主(あちのおみ)が、まだ少年だった息子の都加使主(掬、つかのおみ)と 己が党類(ともがら)17県300人ほどを率いて来帰してきました。 阿知使主一族は帯方郡の官僚たちの生き残りで、百済王朝では主に文書行政役を務めていました。404年8月の阿直伎、405年2月の王仁、406年の弓月君の来朝を倭国王が快く迎え入れ、相応の待遇を受けた来朝者も満足していることを噂に聞きつけて、百済の行く末に見切りをつけたからです。弓月君集団が秦王国の末裔を自称しているのに対し、前漢から後漢に到る漢王室の末裔と称する者もおりました。都に落ち着いた阿知使主一族は倭漢直(やまとあやのあたい)の祖となります。倭漢直は、阿直伎と王仁を祖とする西文(かふちのふみ)に対して東文(やまとのふみ)と呼ばれてライバル関係となります。

 結果として、弓月君を通じて辰国、 王仁を通じて楽浪郡、 阿知使主親子を通じて帯方郡にそれぞれ伝わってきた後漢、魏、西晋の中国文化が倭国に移植され、倭国で命脈を保っていくことになりました。


プロフィール

ひろはた吉備邪馬台国

Author:ひろはた吉備邪馬台国
 (広畠輝治 ひろはた・てるじ)
「第七代孝霊天皇の皇子、吉備津彦兄弟が吉備を征服した」。
古事記のこの一文から「邪馬台国は吉備、敵国の狗奴国は大和」の状景が浮かんできました。
 以来10数年、文献、考古学、神話・神社史の壁をとりはらって、日本誕生の過程を追跡していくと、過去半世紀、正論と見なされてきた「欠史八代説」は誤った推定だったことが明白となりました。

最新記事
カテゴリ
カウンター
リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。